ひょんな事から連絡を取った人と、話をしていたら、素敵な親子だと思ったので日記にします。
その親子は、昨年から身近な人を亡くしていて、あまりにも続くのでお子さん(小1)が不安になっていた。
つい最近にもお子さんのおばあちゃん(ママのママ)を亡くした後は、悲しすぎて考えないように、わざと大きな声で笑ったり、はしゃいだりしていたんだって。
それを偶然か必然か察知できたママと本音で話ができて、2人で泣いたんだって。
たまたまだとしても、察知できるということは、たまたまではなく、それは必然。
一緒に子どもと泣ける親は、それを察知できるチカラを持っている。
子どもと向き合っているからできること。
できない親もたくさんいる。
できる親もたくさんいる。
その違いは、子どもを見ているか、子どもを透かして見ているか。
子どもを見ている親は、目の前の子どもを見ているから、ちょっとの変化に気付く。
わからなくとも、いつもと違うな?と思っている。
だから察知できるのだ。
しかし子どもを透かして見ていると、将来が気になったり、子どもより自分の立場やプライドが気になって、それに子どもを合わせるから細かな変化に気付かないか、あるいは無視する。
だから察知したとしても、遅くなる。手遅れになることが多い。
その親子はきっとこれからも大丈夫。
そう思った。
今日は良い日だった。
その親子の話が聞けて、最近ちょっとささくれだった私の心が和らいだ。
ありがとう。